INTERVIEW

Interview: Lars Müller Publishers/Lars Müller

Interview: Lars Müller Publishers/Lars Müller

English follows Japanese.   —ご自身が出版を始める前、ウィム・クロウエル(Wim Crouwel)のスタジオで働かれていました。当時のことについて教えてください。 1981年にトータルデザイン(Total Design)のインターンに応募しました。当時、トータルデザインには空きがなく、一度は断られましたが、僕は、「ウィム・クロウエルと一緒に働けるなら、給料もいらない。椅子と机さえあればいい」と引き下がりませんでした。それくらい彼と一緒に働きたかったんです。結果的に、3か月後には僕の仕事がスタジオに貢献していると認められ、ジュニアデザイナーに昇格しました。それ以降、2019年に彼が亡くなるまで、ウィムとは大切な友情を築くことができました。当時、ウィムと一緒に制作したアムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)のカタログが、僕にとって人生で初めて手がけた本のデザインでした。その仕事を通じて、僕は大きな気づきを得ました。160ページの本をデザインすることは、ブローシャーやリーフレット、ポスターを作ることとはまったく違う。本というのは、非常に特別な存在なのだということです。ある日、彼の個人ライブラリーを見せてもらっていた時、ウィムはあの特徴的な声でこう言いました。「あらゆる印刷物のなかで、残るのは本だけだ」と。その言葉によって、僕の世界は一変しました。本だけが持つ、未来への可能性。ブローシャーやポスターなどの印刷物の寿命は限られています。イベントが終わればゴミになってしまう。しかし本は図書館に収蔵され、50年後にまた読まれるかもしれない。最初から、長く残ることを前提に作られているのです。その年の終わりに、トータルデザインから正社員にならないかと誘われました。でも、当時スイスにいる女性と恋に落ちてしまっていたので、スイスで一から出発することにしたんです。ロマンチックでしょう? とはいえ、自分のスタジオを立ち上げたものの、最初から仕事があるわけではありません。そこで、「本を発明すればいいんじゃないか」と思いついたんです。「出版」という行為そのものというより、ブックデザインそのものに強く惹かれていたんです。長く残ることを意図された唯一の印刷メディアである本を作りたい。そんな思いから、初めての本『Die gute Form』を制作しました。1950–60年代のスイスのインダストリアルデザインを記録したドイツ語の本で、複雑なタイポグラフィを用いた、かなり野心的な内容でした。DTP以前の時代ですから、すべて手作業で制作しましたが、そのプロセスから多くを学びました。本のデザインが完成し、比較的多くの部数を印刷したあと、「さて、この本たちをどうしようか」と思い、チューリッヒの書店に相談したところ、「出版社が必要だ」と言われました。もっと早く気づくべきですよね(笑)。とはいえ、出版社のあてなどひとつもなかったので、それなら自分が出版社になろうと決めたんです。そうして、自分でデザインし出版した本を、スイスやドイツの書店に配本しました。そして出版社(Lars Müller Publishers)を続けていくために、さまざまな本のプロジェクトにも取り組むようになったんです。出版社というのは、本を作る発明者です。昨今は、プロポーザルやファンディングを待つ、単なるサービスプロバイダーのようになってしまっている出版社も多いですよね。でも僕は、出版社こそが自らアイデアを提案し、テーマを選び、著者を説得して本を作っていくべきだと信じてきました。僕の役割は、それを仕掛け、実現すること。今でもずっと、その姿勢は変わっていません。最初は単純に友人たちと本を作っていましたが、実践しながら流通や経営など、出版ビジネスについて学んでいきました。出版は金銭的には本当に大変な事業でしたが、デザインの仕事がうまくいっていたので、その利益を出版に投資していたんです。 Lars with Jonas Voegeli —どんなプロジェクトを出版するかは、どのように決めていますか。 26歳頃に出版を始めた当時、僕には何も失うものがありませんでした。もともとの性格かもしれませんが、僕は失敗することこそ学ぶチャンスだと信じてやってきたんです。行動すること、学ぶこと、そして続けていくこと。それが自信を与えてくれました。この40年以上、僕はインディペンデントであり続けてきました。そうあり続けること自体が、最大の投資だったと言えるかもしれません。出版プロジェクトは、すべて自分の個人的な興味に基づいて選んでいます。例えば、僕はマイルス・デイヴィス(Miles Davis)のファンなのですが、彼についての英語の伝記を読みたかった。でも当時は英語が得意ではなかったので、自分で版権を買ってドイツ語版を出版してしまった、というように。時に、出版の制作プロセスには長い時間がかかります。その中で、忍耐が不可欠だということも学びました。そして、好奇心も同じくらい大切です。好奇心がなければ、ただプロポーザルを待つだけになってしまうでしょう。でも僕は、いつでも本の企画を自分で考えていたいんです。インディペンデントでいることは自由を与えてくれましたが、もちろん何度も失敗も経験しました。最初の15年は本当に大変で、自分にとっては興味深くても、あまり受け入れられなかった本もありました。でも時間をかけながら、どうすれば個人的な関心を形にし、多くの人と共有できるかを学んでいったんです。同時に、僕はデザイナーであることもやめませんでした。本をデザインすることは、今でも大好きです。だから僕の本は自然と、アート、デザイン、建築、写真など、ヴィジュアルを中心としたものが多くなっています。そして本には、セカンドライフがありますよね。新しい本は現代のディスコースに参加できるうえ、同じ本が10年後、20年後には、時代のドキュメンテーションにもなりうる。この気づきが、『Bauhaus Journal 1926–1931 (Facsimile Edition)』を制作するきっかけにもなりました。1926年から1931年に刊行され、デザイン界に大きな影響を与えたバウハウスのデザインジャーナルの復刻版です。こうした本が伝えるアイデアは、復刻されなければ永久に失われてしまうかもしれません。本はそれを受け継ぎ、そして「どんな記憶が生き残るのか」という、とても重要な問いを僕たちに投げかけてくれます。本の耐久性と文化的な役割に対する信念こそが、僕が出版を続けているモチベーションです。そして、これからもその意味は失われないと信じています。 —出版社を始められた頃、周りに他のインディペンデント・パブリッシャーはいましたか。 文学でもアートの分野でも、独立性にコミットしている出版社は昔から存在していました。ヨーロッパでは、ハッチェ・カンツ(Hatje Cantz)の創業者であるゲルト・ハッチェ(Gerd Hatje)や、スイスのニグリ(Niggli)も重要な役割を担ってきました。彼らは、戦後のデザイン、建築、グラフィックデザインにおけるモダニズム運動の出版において、中心的な存在でした。若いグラフィックデザイナーだった僕は、出版社を始めるずっと前から彼らの本に憧れていました。そして実際に出版を始めた時、出版ビジネスを学ぶために真っ先にアプローチしたのも彼らでした。彼らは、ネットワークと人間関係の重要性を教えてくれました。著者たちとは、時間を重ねるうちにとても親密な関係になり、友人と呼べるような関係に発展することも多いですね。本を通じて、関係性と相互理解を築いていく。多くを語らなくても通じ合える。本に向き合うことで、似た価値観や信念を自然と共有できるんです。90年代初頭には、フランクフルト・ブックフェアがみんなの集まる場所でした。そこで、オランダやフランス、ドイツなどの、小規模ながら独立性にコミットしているインディペンデント・パブリッシャーたちと出会いました。この時代を理解するうえで重要なのは、僕たちがみな、60–70年代の政治運動に大きな影響を受けた世代だったということです。60年代にはベトナム戦争があり、70年代にはオイルショックが続き、各地で多くのデモが起こっていました。世界は大きく揺れていて、さまざまな出来事が起きていた。僕自身も、当時は政治活動に積極的に参加していました。だからこそ、頻繁に連絡を取り合っていたわけではありませんが、孤独を感じたことはありませんでした。僕は一番になりたいとは思っていなかったけど、ただ良い出版社の仲間でありたかったんです。どの分野でもそうですが、トップに立つことよりも、持続していくことのほうが大事なのではないかと思っています。だからこそ、独立性こそが最も価値のある投資だと強く信じていたんです。出版社の規模を小さく保つことを選んだのも、自分自身で本をデザインし、コントロールできる状態を保ちたかったからです。年間20冊を超えることはありませんでしたし、今でもそれ以上の冊数を出すことはあまりありません。自分への約束として、「絶対にインディペンデントであり続ける」と決めていました。...

Interview: Lars Müller Publishers/Lars Müller

English follows Japanese.   —ご自身が出版を始める前、ウィム・クロウエル(Wim Crouwel)のスタジオで働かれていました。当時のことについて教えてください。 1981年にトータルデザイン(Total Design)のインターンに応募しました。当時、トータルデザインには空きがなく、一度は断られましたが、僕は、「ウィム・クロウエルと一緒に働けるなら、給料もいらない。椅子と机さえあればいい」と引き下がりませんでした。それくらい彼と一緒に働きたかったんです。結果的に、3か月後には僕の仕事がスタジオに貢献していると認められ、ジュニアデザイナーに昇格しました。それ以降、2019年に彼が亡くなるまで、ウィムとは大切な友情を築くことができました。当時、ウィムと一緒に制作したアムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)のカタログが、僕にとって人生で初めて手がけた本のデザインでした。その仕事を通じて、僕は大きな気づきを得ました。160ページの本をデザインすることは、ブローシャーやリーフレット、ポスターを作ることとはまったく違う。本というのは、非常に特別な存在なのだということです。ある日、彼の個人ライブラリーを見せてもらっていた時、ウィムはあの特徴的な声でこう言いました。「あらゆる印刷物のなかで、残るのは本だけだ」と。その言葉によって、僕の世界は一変しました。本だけが持つ、未来への可能性。ブローシャーやポスターなどの印刷物の寿命は限られています。イベントが終わればゴミになってしまう。しかし本は図書館に収蔵され、50年後にまた読まれるかもしれない。最初から、長く残ることを前提に作られているのです。その年の終わりに、トータルデザインから正社員にならないかと誘われました。でも、当時スイスにいる女性と恋に落ちてしまっていたので、スイスで一から出発することにしたんです。ロマンチックでしょう? とはいえ、自分のスタジオを立ち上げたものの、最初から仕事があるわけではありません。そこで、「本を発明すればいいんじゃないか」と思いついたんです。「出版」という行為そのものというより、ブックデザインそのものに強く惹かれていたんです。長く残ることを意図された唯一の印刷メディアである本を作りたい。そんな思いから、初めての本『Die gute Form』を制作しました。1950–60年代のスイスのインダストリアルデザインを記録したドイツ語の本で、複雑なタイポグラフィを用いた、かなり野心的な内容でした。DTP以前の時代ですから、すべて手作業で制作しましたが、そのプロセスから多くを学びました。本のデザインが完成し、比較的多くの部数を印刷したあと、「さて、この本たちをどうしようか」と思い、チューリッヒの書店に相談したところ、「出版社が必要だ」と言われました。もっと早く気づくべきですよね(笑)。とはいえ、出版社のあてなどひとつもなかったので、それなら自分が出版社になろうと決めたんです。そうして、自分でデザインし出版した本を、スイスやドイツの書店に配本しました。そして出版社(Lars Müller Publishers)を続けていくために、さまざまな本のプロジェクトにも取り組むようになったんです。出版社というのは、本を作る発明者です。昨今は、プロポーザルやファンディングを待つ、単なるサービスプロバイダーのようになってしまっている出版社も多いですよね。でも僕は、出版社こそが自らアイデアを提案し、テーマを選び、著者を説得して本を作っていくべきだと信じてきました。僕の役割は、それを仕掛け、実現すること。今でもずっと、その姿勢は変わっていません。最初は単純に友人たちと本を作っていましたが、実践しながら流通や経営など、出版ビジネスについて学んでいきました。出版は金銭的には本当に大変な事業でしたが、デザインの仕事がうまくいっていたので、その利益を出版に投資していたんです。 Lars with Jonas Voegeli —どんなプロジェクトを出版するかは、どのように決めていますか。 26歳頃に出版を始めた当時、僕には何も失うものがありませんでした。もともとの性格かもしれませんが、僕は失敗することこそ学ぶチャンスだと信じてやってきたんです。行動すること、学ぶこと、そして続けていくこと。それが自信を与えてくれました。この40年以上、僕はインディペンデントであり続けてきました。そうあり続けること自体が、最大の投資だったと言えるかもしれません。出版プロジェクトは、すべて自分の個人的な興味に基づいて選んでいます。例えば、僕はマイルス・デイヴィス(Miles Davis)のファンなのですが、彼についての英語の伝記を読みたかった。でも当時は英語が得意ではなかったので、自分で版権を買ってドイツ語版を出版してしまった、というように。時に、出版の制作プロセスには長い時間がかかります。その中で、忍耐が不可欠だということも学びました。そして、好奇心も同じくらい大切です。好奇心がなければ、ただプロポーザルを待つだけになってしまうでしょう。でも僕は、いつでも本の企画を自分で考えていたいんです。インディペンデントでいることは自由を与えてくれましたが、もちろん何度も失敗も経験しました。最初の15年は本当に大変で、自分にとっては興味深くても、あまり受け入れられなかった本もありました。でも時間をかけながら、どうすれば個人的な関心を形にし、多くの人と共有できるかを学んでいったんです。同時に、僕はデザイナーであることもやめませんでした。本をデザインすることは、今でも大好きです。だから僕の本は自然と、アート、デザイン、建築、写真など、ヴィジュアルを中心としたものが多くなっています。そして本には、セカンドライフがありますよね。新しい本は現代のディスコースに参加できるうえ、同じ本が10年後、20年後には、時代のドキュメンテーションにもなりうる。この気づきが、『Bauhaus Journal 1926–1931 (Facsimile Edition)』を制作するきっかけにもなりました。1926年から1931年に刊行され、デザイン界に大きな影響を与えたバウハウスのデザインジャーナルの復刻版です。こうした本が伝えるアイデアは、復刻されなければ永久に失われてしまうかもしれません。本はそれを受け継ぎ、そして「どんな記憶が生き残るのか」という、とても重要な問いを僕たちに投げかけてくれます。本の耐久性と文化的な役割に対する信念こそが、僕が出版を続けているモチベーションです。そして、これからもその意味は失われないと信じています。 —出版社を始められた頃、周りに他のインディペンデント・パブリッシャーはいましたか。 文学でもアートの分野でも、独立性にコミットしている出版社は昔から存在していました。ヨーロッパでは、ハッチェ・カンツ(Hatje Cantz)の創業者であるゲルト・ハッチェ(Gerd Hatje)や、スイスのニグリ(Niggli)も重要な役割を担ってきました。彼らは、戦後のデザイン、建築、グラフィックデザインにおけるモダニズム運動の出版において、中心的な存在でした。若いグラフィックデザイナーだった僕は、出版社を始めるずっと前から彼らの本に憧れていました。そして実際に出版を始めた時、出版ビジネスを学ぶために真っ先にアプローチしたのも彼らでした。彼らは、ネットワークと人間関係の重要性を教えてくれました。著者たちとは、時間を重ねるうちにとても親密な関係になり、友人と呼べるような関係に発展することも多いですね。本を通じて、関係性と相互理解を築いていく。多くを語らなくても通じ合える。本に向き合うことで、似た価値観や信念を自然と共有できるんです。90年代初頭には、フランクフルト・ブックフェアがみんなの集まる場所でした。そこで、オランダやフランス、ドイツなどの、小規模ながら独立性にコミットしているインディペンデント・パブリッシャーたちと出会いました。この時代を理解するうえで重要なのは、僕たちがみな、60–70年代の政治運動に大きな影響を受けた世代だったということです。60年代にはベトナム戦争があり、70年代にはオイルショックが続き、各地で多くのデモが起こっていました。世界は大きく揺れていて、さまざまな出来事が起きていた。僕自身も、当時は政治活動に積極的に参加していました。だからこそ、頻繁に連絡を取り合っていたわけではありませんが、孤独を感じたことはありませんでした。僕は一番になりたいとは思っていなかったけど、ただ良い出版社の仲間でありたかったんです。どの分野でもそうですが、トップに立つことよりも、持続していくことのほうが大事なのではないかと思っています。だからこそ、独立性こそが最も価値のある投資だと強く信じていたんです。出版社の規模を小さく保つことを選んだのも、自分自身で本をデザインし、コントロールできる状態を保ちたかったからです。年間20冊を超えることはありませんでしたし、今でもそれ以上の冊数を出すことはあまりありません。自分への約束として、「絶対にインディペンデントであり続ける」と決めていました。...

Interview: Yusuke Nakajima

Interview: Yusuke Nakajima

English follows Japanese.   POSTオーナー中島佑介のインタビュー。聞き手は、グラフィックデザイン誌「アイデア」元編集者で、現在は武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科准教授を務める古賀稔章氏です。   本から人へと伝わる文化の循環   古賀|2000年代初期を改めて振り返るとき、limArtという本屋が、フルクサス(Fluxus)やコンクリートポエトリー関連の印刷物、オランダのデ・ヨング社(Steendrukkerij de Jong & Co.)やドイツのライナー・フェアラーク(Rainer Verlag)のアーティストブックなどを紹介していたことは、同時代の文化的記憶として強く印象に残っています。中島さんがlimArtの初期に紹介されていた20世紀初頭のモダニストから戦後のコンセプチュアルな印刷物にいたる出版文化には、どのように興味を持たれていったのでしょうか。   中島|最初は全然アートに関する知識もなく、とりあえずアートブックに興味を持って、将来は本屋をやろうと決めていました。その修行のためにON SUNDAYSでアルバイトを始めた頃に見たのがフルクサスの印刷物でした。アートのムーブメントとしてのフルクサスの重要性よりも、単純に印刷物の視覚表現やグラフィックデザインに興味を持ったんです。また、亡くなられた柳本浩市さんが当時オランダで見つけてきたデ・ヨング社の印刷物「クァドラート・プリント(Kwadraat-Bladen、英語でQuadrat-Prints)」をON SUNDAYSで取り扱っていて、一番印象に残ったのは、ピーター・ブラッティンガ(Pieter Brattinga)による大量のレシートをまとめた箱でした。その印刷物の表現のあり方は、一般的に流通している本の形式とは全然違っていました。もうひとつは、澄敬一さんがやっていた池尻大橋のインテリアショップpush me pull youで、オランダの写真家ヨハン・ファン・デル・クーケン(Johan van der Keuken)を教えてもらったことです。20代の頃、芸術表現の中でよく理解できていなかったのが写真でした。どちらかというと写真を記録的なものと捉えていたのですが、ファン・デル・クーケンの写真には、ただ瞬間を記録したものではなく、その前後の時間が含まれているような不思議な印象を持ちました。   古賀|オランダに関連する印刷物としては、アムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)のウィレム・サンドベルフ(Willem Sandberg)やウィム・クロウエル(Wim...

Interview: Yusuke Nakajima

English follows Japanese.   POSTオーナー中島佑介のインタビュー。聞き手は、グラフィックデザイン誌「アイデア」元編集者で、現在は武蔵野美術大学造形学部芸術文化学科准教授を務める古賀稔章氏です。   本から人へと伝わる文化の循環   古賀|2000年代初期を改めて振り返るとき、limArtという本屋が、フルクサス(Fluxus)やコンクリートポエトリー関連の印刷物、オランダのデ・ヨング社(Steendrukkerij de Jong & Co.)やドイツのライナー・フェアラーク(Rainer Verlag)のアーティストブックなどを紹介していたことは、同時代の文化的記憶として強く印象に残っています。中島さんがlimArtの初期に紹介されていた20世紀初頭のモダニストから戦後のコンセプチュアルな印刷物にいたる出版文化には、どのように興味を持たれていったのでしょうか。   中島|最初は全然アートに関する知識もなく、とりあえずアートブックに興味を持って、将来は本屋をやろうと決めていました。その修行のためにON SUNDAYSでアルバイトを始めた頃に見たのがフルクサスの印刷物でした。アートのムーブメントとしてのフルクサスの重要性よりも、単純に印刷物の視覚表現やグラフィックデザインに興味を持ったんです。また、亡くなられた柳本浩市さんが当時オランダで見つけてきたデ・ヨング社の印刷物「クァドラート・プリント(Kwadraat-Bladen、英語でQuadrat-Prints)」をON SUNDAYSで取り扱っていて、一番印象に残ったのは、ピーター・ブラッティンガ(Pieter Brattinga)による大量のレシートをまとめた箱でした。その印刷物の表現のあり方は、一般的に流通している本の形式とは全然違っていました。もうひとつは、澄敬一さんがやっていた池尻大橋のインテリアショップpush me pull youで、オランダの写真家ヨハン・ファン・デル・クーケン(Johan van der Keuken)を教えてもらったことです。20代の頃、芸術表現の中でよく理解できていなかったのが写真でした。どちらかというと写真を記録的なものと捉えていたのですが、ファン・デル・クーケンの写真には、ただ瞬間を記録したものではなく、その前後の時間が含まれているような不思議な印象を持ちました。   古賀|オランダに関連する印刷物としては、アムステルダム市立美術館(Stedelijk Museum Amsterdam)のウィレム・サンドベルフ(Willem Sandberg)やウィム・クロウエル(Wim...

Interview: Kanako Murakami & Atsuko Murano Abalos

Interview: Kanako Murakami & Atsuko Murano Abalos

POSTの最初のスタッフである村上加奈子さんと、元スタッフであり、POSTで写真展を開催するなど、さまざまな形で関わってくださっている村野アバロス敦子さんにお話を伺いました。   角田:本日はよろしくお願いいたします。村上さんが働いていたころのエピソードや、敦子さんとPOSTの出会いのお話など伺えればと思っています。村上さんが働き始めたのはPOSTの前身、リムアートの時ですか? 村上:そうです。中島さんの大学の卒業と同時に、当時の先輩と一緒に始めたのがきっかけで、オンラインストアから始めて、その後に早稲田のギャラリーでイベントとして開催したのが最初と聞いています。そこから恵比寿に店舗を作ったときに、弟の中島孝介さんと田中貴志さんという自身で制作活動をされていた方がいて、その二人がジョインして四人で始めたのが恵比寿のリムアートです。そこから田中さんが独立するとなった時に、外部から人を雇うことになり、私はその時に採用されました。実は別の方がすでにスタッフとして決まっていたのですが、予定外の追加枠という形で、面接を受けて採用してもらいました。   角田:その採用情報はどこで見つけたんですか? 村上:私は当時留学を終えて日本に帰ってきたタイミングで、新卒採用のルートから完全に外れてしまっていたのですが、知り合いの方が「恵比寿のリムアート、募集しているよ」と教えてくれたことがきっかけです。行ったことのあるお店だし、いいなと思っていたので応募しました。   敦子:村上さんが働き始めた時から、現在の恵比寿の場所で、白いペンキ塗りの外観というのは変わりなかったんですか? 村上:はい、そうです。でも当時は家具、器、古本、ギャラリースペースのお店として運営していました。*当時は現POSTの奥のギャラリースペースの他に、徒歩3分くらいの場所にアネックスという、ギャラリースペース兼撮影用レンタルスペースがありました。 敦子:じゃあ純粋に本屋になったのはいつなんでしょうか? 村上:それはPOSTを作ったタイミングですね。代々木ビレッジのお店を開けた時が、POSTと名乗った最初で、それが2011年とかかな?なので私が働き始めたとき、まだお店の名前はリムアートで、本だけではなく、家具や器の接客もしていました。家具が売れたら梱包をして発送をするし、あとギャラリースペースのレンタルに関する問い合わせに対応したりしていました。     角田:村上さんが働かれていたのはいつからいつまでのことでしょうか? 村上:確かベルギーから帰国後の2010年から2013年の間ですね。 角田:退職のきっかけを伺ってもいいでしょうか? 村上: 私学生の時に賞をもらっていたんですね。その副賞がスウェーデンのアーティストインレジデンスで一ヶ月間滞在制作できる権利でした。それを実行できないまま日本に帰ってきてしまったので、スウェーデンに制作をしに行くというのを建前上の理由にしていました。でも本当の理由は違ったんです。リムアートからPOSTになった時、実は会社にとって大きな転期で、事業の内容を本屋と家具屋で分けることになり、私が中島さんとPOSTを担当することになりました。ワンダーウォールの片山さんからお声がけいただき、代々木ビレッジの中にPOSTを作って、リムアートでは扱っていなかった新刊を並べるようになりました。その後、恵比寿に行くことはほとんどなく、代々木ビレッジの店舗に一人で立つことが多くなり、日々やることはあるものの時間に余裕があり、お客さんが来るのをじっと待っていたんです。お客さんが来ると接客をしていましたが、私が個人的にお店の人に話しかけられるのが苦手だったので、私に話しかけられて嫌だろうなという心配がありました。扱っている書籍は基本英語だったり、たまにドイツ語の本もあって、何が書いているかわからないと思うので内容を説明するものの、アートブックってやっぱり難しい商材で本当に興味がある人にとってはすごく面白いけれど、そうじゃない人にとってはなんだこれっていう感じじゃないですか。それに、インターネットでも本が買える状況で重い本を店舗で買うときに、自分には何ができるんだろうと悩む状況が苦しくて、まあ私には多分向いてないのかなと思って辞めることに決めました。働いている時に、未だに自分の人生の中でとても大事だなと思える出会いが何個かありました。その中の一人が、あるブックデザイナーの方です。彼は奇襲家で、ものすごい量のアートブックを集めているのですが、ネットで検索してボタンを押せば購入できる本をわざわざ本屋に買いに行かれるんです。たくさん本を購入して、タクシーで帰ることもあると話されていました。「僕は本が好きだから、そういう本を実店舗で扱っているところを応援したい」とおっしゃっていたのが当時の私には衝撃的でした。値段だけではなくて、その先まで考えた消費行動をする人がいるんだというのが大きな出会いだったのですが、それに見合ったサービスを私は提供できてない気がして、当時は心苦しさの方が勝ってしまいました。 角田:働いている時の印象的なエピソードはありますか? 村上:本屋として中島さんもやっぱりいろんなことを考えるじゃないですか、リムアートとして価値提供できるものはなんだろうって。入社してまだ一年経ってないくらいの時に、中島さんに「Donald Judd / A good chair is a good chair」に掲載されているテキストを丸々一冊翻訳してほしいと頼まれ、ついでに版元のIkon...

Interview: Kanako Murakami & Atsuko Murano Abalos

POSTの最初のスタッフである村上加奈子さんと、元スタッフであり、POSTで写真展を開催するなど、さまざまな形で関わってくださっている村野アバロス敦子さんにお話を伺いました。   角田:本日はよろしくお願いいたします。村上さんが働いていたころのエピソードや、敦子さんとPOSTの出会いのお話など伺えればと思っています。村上さんが働き始めたのはPOSTの前身、リムアートの時ですか? 村上:そうです。中島さんの大学の卒業と同時に、当時の先輩と一緒に始めたのがきっかけで、オンラインストアから始めて、その後に早稲田のギャラリーでイベントとして開催したのが最初と聞いています。そこから恵比寿に店舗を作ったときに、弟の中島孝介さんと田中貴志さんという自身で制作活動をされていた方がいて、その二人がジョインして四人で始めたのが恵比寿のリムアートです。そこから田中さんが独立するとなった時に、外部から人を雇うことになり、私はその時に採用されました。実は別の方がすでにスタッフとして決まっていたのですが、予定外の追加枠という形で、面接を受けて採用してもらいました。   角田:その採用情報はどこで見つけたんですか? 村上:私は当時留学を終えて日本に帰ってきたタイミングで、新卒採用のルートから完全に外れてしまっていたのですが、知り合いの方が「恵比寿のリムアート、募集しているよ」と教えてくれたことがきっかけです。行ったことのあるお店だし、いいなと思っていたので応募しました。   敦子:村上さんが働き始めた時から、現在の恵比寿の場所で、白いペンキ塗りの外観というのは変わりなかったんですか? 村上:はい、そうです。でも当時は家具、器、古本、ギャラリースペースのお店として運営していました。*当時は現POSTの奥のギャラリースペースの他に、徒歩3分くらいの場所にアネックスという、ギャラリースペース兼撮影用レンタルスペースがありました。 敦子:じゃあ純粋に本屋になったのはいつなんでしょうか? 村上:それはPOSTを作ったタイミングですね。代々木ビレッジのお店を開けた時が、POSTと名乗った最初で、それが2011年とかかな?なので私が働き始めたとき、まだお店の名前はリムアートで、本だけではなく、家具や器の接客もしていました。家具が売れたら梱包をして発送をするし、あとギャラリースペースのレンタルに関する問い合わせに対応したりしていました。     角田:村上さんが働かれていたのはいつからいつまでのことでしょうか? 村上:確かベルギーから帰国後の2010年から2013年の間ですね。 角田:退職のきっかけを伺ってもいいでしょうか? 村上: 私学生の時に賞をもらっていたんですね。その副賞がスウェーデンのアーティストインレジデンスで一ヶ月間滞在制作できる権利でした。それを実行できないまま日本に帰ってきてしまったので、スウェーデンに制作をしに行くというのを建前上の理由にしていました。でも本当の理由は違ったんです。リムアートからPOSTになった時、実は会社にとって大きな転期で、事業の内容を本屋と家具屋で分けることになり、私が中島さんとPOSTを担当することになりました。ワンダーウォールの片山さんからお声がけいただき、代々木ビレッジの中にPOSTを作って、リムアートでは扱っていなかった新刊を並べるようになりました。その後、恵比寿に行くことはほとんどなく、代々木ビレッジの店舗に一人で立つことが多くなり、日々やることはあるものの時間に余裕があり、お客さんが来るのをじっと待っていたんです。お客さんが来ると接客をしていましたが、私が個人的にお店の人に話しかけられるのが苦手だったので、私に話しかけられて嫌だろうなという心配がありました。扱っている書籍は基本英語だったり、たまにドイツ語の本もあって、何が書いているかわからないと思うので内容を説明するものの、アートブックってやっぱり難しい商材で本当に興味がある人にとってはすごく面白いけれど、そうじゃない人にとってはなんだこれっていう感じじゃないですか。それに、インターネットでも本が買える状況で重い本を店舗で買うときに、自分には何ができるんだろうと悩む状況が苦しくて、まあ私には多分向いてないのかなと思って辞めることに決めました。働いている時に、未だに自分の人生の中でとても大事だなと思える出会いが何個かありました。その中の一人が、あるブックデザイナーの方です。彼は奇襲家で、ものすごい量のアートブックを集めているのですが、ネットで検索してボタンを押せば購入できる本をわざわざ本屋に買いに行かれるんです。たくさん本を購入して、タクシーで帰ることもあると話されていました。「僕は本が好きだから、そういう本を実店舗で扱っているところを応援したい」とおっしゃっていたのが当時の私には衝撃的でした。値段だけではなくて、その先まで考えた消費行動をする人がいるんだというのが大きな出会いだったのですが、それに見合ったサービスを私は提供できてない気がして、当時は心苦しさの方が勝ってしまいました。 角田:働いている時の印象的なエピソードはありますか? 村上:本屋として中島さんもやっぱりいろんなことを考えるじゃないですか、リムアートとして価値提供できるものはなんだろうって。入社してまだ一年経ってないくらいの時に、中島さんに「Donald Judd / A good chair is a good chair」に掲載されているテキストを丸々一冊翻訳してほしいと頼まれ、ついでに版元のIkon...

Interview: Sayaka Shinoaki

Interview: Sayaka Shinoaki

English follows ー2人で飲むの、2回目だよね。 そうそう、いでちゃんがPOST初出勤の日。 ーしのあきちゃんは、どういう経緯でPOSTに入ったの? まず、大学3年生の時にコロナで校舎に入れなくなったんだよね。図書館が好きでよく行ってたんだけどそれもできなくなったし、喫茶店のバイトもクビになっちゃって。家でずっと授業受けるのも、バイトがないのもつまんないなと思ってた時、神保町の古書店で働いてる友だちがインスタのストーリーで、「バイト募集中」ってあげてたの。これだ!と思ってすぐ履歴書を買いに行って、翌日面接受けたら合格。大学3年の間は週3、4で出勤してたからそっちが学校みたいな感じで、同世代のスタッフもいたし、アートやデザイン、写真に詳しい先輩がたくさんいていい環境だった。それから2、3年くらい経って、卒業後どうしようって思い始めて。そこで社員になる道もあったんだけど、踏みとどまったんだよね。 ーどうして? 本ってさ、たとえば1969年に1000円で売ってた写真集が、今の時代100万円のプレミア価格になるような世界じゃない?でも、何十年も前に出版された本を今100万円で売ったとしても、作家には何のバックもないわけで。もちろん、いい写真集とかアートブックってたくさん存在するんだけど、古書世界のシステムが自分にとっては引っかかったんだよね。そんなこんなで大学4年の間は卒論で忙しく過ごして、卒業する前の1月くらいにPOSTの求人を見つけたの。「あのPOSTだ!」と思って。通販でも買ったことあるし、店頭にもよく行ってて。いい場所っていう印象があったのと、何より新刊の流通を追えることに惹かれた。1000円で売ってるものを1000円で買う。それをリアルタイムで見られたら、同時代を生きている感じがしてかっこいいなと思った。それにお金の回り方も健全だなと思って。作家、編集者、出版社それぞれがフェアな立場で制作から流通まで関われる環境を自分の目で見てみたいなと。その後、大学卒業のタイミングでPOSTに入ったんだよね。実際自分が思い描いてたものを目の当たりにできたし、中島さんの考え方やセンスがしっくりきた。でも一方で、親にはアートブックとかよくわからないところで何してんだってずっと理解されなくて。自分はただ楽しいなと思う気持ちで仕事してるのに、大企業に就職しなさいって急かしてくるし。いろんな状況にギュギュギュって押し込まれてたんだけど、ある時ふとPOSTにしようって思ったんだよね。  ーそれはどんな抜け道だったの? POSTの人は圧倒的にみんな気持ちのいい人たちばかりで、悪い人がいない。フラットで、中島さんはみんなのことを尊重してくれる感じがしたんだよね。意見を言ったらちゃんと聞いてくれる、そう思えるから発言できるし。しかも、みんなパートナーがいて幸せそうだったの(笑)。 ーなんか聞いたことある(笑)。 POSTに入るとパートナーができるっていうジンクス(笑)。でも本当にいい気が巡ってる感じがした。あとは、同期の存在が大きかったな。リーダーと小山は仕事もしやすいし話しやすいし。違和感なく仕事ができて、考える判断も一緒だった。悩みに悩んで長い目で考えて、POSTで働けて本当によかったと思ってるなあ。もちろん、古書店で働かなかったら得られなかったこともたくさんあるから感謝してる。写真家やアーティストの知識のほとんどを教わったし、そこでの経験があるからこそPOSTで任せてもらえることも多いから。 ーPOSTに入ってどのくらい経った? もうすぐ丸4年で5年目だね。 ー将来のこと考えたりする? 前は、自分は何者になりたいんだろうってよく考えてた。flotsambooksの小林さんにも「肩書きがあったほうが仕事はもらえるよね」って言われたのが頭に残ってるし、周りは写真家とかスタイリストとか、肩書きがはっきりしている人が多いから余計に自分が曖昧な状態で不安だったんだよね。周りの人に「独立して本屋したいの?」ってよく聞かれるけど、別にそうではなくて。それに、変に打算的になるのも嫌なの。将来こうなりたいから今ここでこれを盗んで......みたいな。自分が好きなことをずっと続けて、なるべくしてなるものになれたらいいなみたいな感じだから、ただ毎日を必死で生きてこうみたいな。途中でやりたいこと見つけたらそれをやっていいし。中島さんにそんな話をした時に、「何をしようとしても応援するよ」って言ってもらえたことがあって。それはすごく気が楽だなって思ったんだよね。本屋になってほしいとかじゃないし、辞めないでほしいとかでもないし、すごくありがたいなと思った。自分のスタイルで日々粛々とやっていこうって思えたんだよね。肩書きがほしかった時期はもう過ぎたし、自分の中ではちゃんと成長を感じてるし。何より毎日がすごく楽しい!こんなに楽しくていいのかなっていうぐらい(笑)。今でも活躍してる友人を見てるともちろんかっこいいと思うよ。みんな年齢を重ねて、大きい仕事をするようになってすごいなと思うけど、でも今は「がんばれ」って劣等感を感じず素直に応援できるようになってきた。私は私だし、みたいな。 ーPOSTってどうなっていくのかな? ほんとそうだよね。 ーホテルとかやるんかな。 それはやりたいんだよね!STOP。 ーアナグラム式の事業、最高だよね! しかも、服屋も小物屋もできるからね。まずPOSTが本屋でしょ。で、SPOTがバーで。STOPが宿。あとTOPSとPOTS! ーポッツ!複数形(笑)。 今後の展開はそうなっております(笑)。 ーそれってけっこうガチなんかな? わかんない。でもそもそもバーのSPOTも、中島さんと飲んでた時にバーだったら絶対SPOTじゃないですか?って話したのがきっかけ。だからあり得るよ(笑)。この前も作業してて、「SPOTを実現しちゃいそうだね」「本当ですよね。ウケますよね」って話してた(笑)。 ー先が見えないのがいいね、POSTは。中島さんもこうなりたいとかがなさそうだもんね。 どう見えるかっていうのを全く気にしてない感じがめっちゃする。素敵な大人だよね。 ー中島さんへの厚い支持は、本当にすごいなあと思う。いい顔とかしないじゃん。NOなものはNOというか。それでも中島さんを信頼する人がたくさんいて。 たしかに。そういうところがかっこいいなと思う。誰にでもいい顔したりおべっか言うとかじゃなくて、自分の中に確固たる価値観があって、ただそれに順じて生きてるっていう感じがするよね。だから誰にどう言われようが何を思われようが関係ない。わかってくれる人だけがわかってて、それを信じてくれてる。もちろん離れていった人もいるって言ってたの。でもそれに対して落ち込んだりもしない。私もそうやって強くなっていきたいなって思った。...

Interview: Sayaka Shinoaki

English follows ー2人で飲むの、2回目だよね。 そうそう、いでちゃんがPOST初出勤の日。 ーしのあきちゃんは、どういう経緯でPOSTに入ったの? まず、大学3年生の時にコロナで校舎に入れなくなったんだよね。図書館が好きでよく行ってたんだけどそれもできなくなったし、喫茶店のバイトもクビになっちゃって。家でずっと授業受けるのも、バイトがないのもつまんないなと思ってた時、神保町の古書店で働いてる友だちがインスタのストーリーで、「バイト募集中」ってあげてたの。これだ!と思ってすぐ履歴書を買いに行って、翌日面接受けたら合格。大学3年の間は週3、4で出勤してたからそっちが学校みたいな感じで、同世代のスタッフもいたし、アートやデザイン、写真に詳しい先輩がたくさんいていい環境だった。それから2、3年くらい経って、卒業後どうしようって思い始めて。そこで社員になる道もあったんだけど、踏みとどまったんだよね。 ーどうして? 本ってさ、たとえば1969年に1000円で売ってた写真集が、今の時代100万円のプレミア価格になるような世界じゃない?でも、何十年も前に出版された本を今100万円で売ったとしても、作家には何のバックもないわけで。もちろん、いい写真集とかアートブックってたくさん存在するんだけど、古書世界のシステムが自分にとっては引っかかったんだよね。そんなこんなで大学4年の間は卒論で忙しく過ごして、卒業する前の1月くらいにPOSTの求人を見つけたの。「あのPOSTだ!」と思って。通販でも買ったことあるし、店頭にもよく行ってて。いい場所っていう印象があったのと、何より新刊の流通を追えることに惹かれた。1000円で売ってるものを1000円で買う。それをリアルタイムで見られたら、同時代を生きている感じがしてかっこいいなと思った。それにお金の回り方も健全だなと思って。作家、編集者、出版社それぞれがフェアな立場で制作から流通まで関われる環境を自分の目で見てみたいなと。その後、大学卒業のタイミングでPOSTに入ったんだよね。実際自分が思い描いてたものを目の当たりにできたし、中島さんの考え方やセンスがしっくりきた。でも一方で、親にはアートブックとかよくわからないところで何してんだってずっと理解されなくて。自分はただ楽しいなと思う気持ちで仕事してるのに、大企業に就職しなさいって急かしてくるし。いろんな状況にギュギュギュって押し込まれてたんだけど、ある時ふとPOSTにしようって思ったんだよね。  ーそれはどんな抜け道だったの? POSTの人は圧倒的にみんな気持ちのいい人たちばかりで、悪い人がいない。フラットで、中島さんはみんなのことを尊重してくれる感じがしたんだよね。意見を言ったらちゃんと聞いてくれる、そう思えるから発言できるし。しかも、みんなパートナーがいて幸せそうだったの(笑)。 ーなんか聞いたことある(笑)。 POSTに入るとパートナーができるっていうジンクス(笑)。でも本当にいい気が巡ってる感じがした。あとは、同期の存在が大きかったな。リーダーと小山は仕事もしやすいし話しやすいし。違和感なく仕事ができて、考える判断も一緒だった。悩みに悩んで長い目で考えて、POSTで働けて本当によかったと思ってるなあ。もちろん、古書店で働かなかったら得られなかったこともたくさんあるから感謝してる。写真家やアーティストの知識のほとんどを教わったし、そこでの経験があるからこそPOSTで任せてもらえることも多いから。 ーPOSTに入ってどのくらい経った? もうすぐ丸4年で5年目だね。 ー将来のこと考えたりする? 前は、自分は何者になりたいんだろうってよく考えてた。flotsambooksの小林さんにも「肩書きがあったほうが仕事はもらえるよね」って言われたのが頭に残ってるし、周りは写真家とかスタイリストとか、肩書きがはっきりしている人が多いから余計に自分が曖昧な状態で不安だったんだよね。周りの人に「独立して本屋したいの?」ってよく聞かれるけど、別にそうではなくて。それに、変に打算的になるのも嫌なの。将来こうなりたいから今ここでこれを盗んで......みたいな。自分が好きなことをずっと続けて、なるべくしてなるものになれたらいいなみたいな感じだから、ただ毎日を必死で生きてこうみたいな。途中でやりたいこと見つけたらそれをやっていいし。中島さんにそんな話をした時に、「何をしようとしても応援するよ」って言ってもらえたことがあって。それはすごく気が楽だなって思ったんだよね。本屋になってほしいとかじゃないし、辞めないでほしいとかでもないし、すごくありがたいなと思った。自分のスタイルで日々粛々とやっていこうって思えたんだよね。肩書きがほしかった時期はもう過ぎたし、自分の中ではちゃんと成長を感じてるし。何より毎日がすごく楽しい!こんなに楽しくていいのかなっていうぐらい(笑)。今でも活躍してる友人を見てるともちろんかっこいいと思うよ。みんな年齢を重ねて、大きい仕事をするようになってすごいなと思うけど、でも今は「がんばれ」って劣等感を感じず素直に応援できるようになってきた。私は私だし、みたいな。 ーPOSTってどうなっていくのかな? ほんとそうだよね。 ーホテルとかやるんかな。 それはやりたいんだよね!STOP。 ーアナグラム式の事業、最高だよね! しかも、服屋も小物屋もできるからね。まずPOSTが本屋でしょ。で、SPOTがバーで。STOPが宿。あとTOPSとPOTS! ーポッツ!複数形(笑)。 今後の展開はそうなっております(笑)。 ーそれってけっこうガチなんかな? わかんない。でもそもそもバーのSPOTも、中島さんと飲んでた時にバーだったら絶対SPOTじゃないですか?って話したのがきっかけ。だからあり得るよ(笑)。この前も作業してて、「SPOTを実現しちゃいそうだね」「本当ですよね。ウケますよね」って話してた(笑)。 ー先が見えないのがいいね、POSTは。中島さんもこうなりたいとかがなさそうだもんね。 どう見えるかっていうのを全く気にしてない感じがめっちゃする。素敵な大人だよね。 ー中島さんへの厚い支持は、本当にすごいなあと思う。いい顔とかしないじゃん。NOなものはNOというか。それでも中島さんを信頼する人がたくさんいて。 たしかに。そういうところがかっこいいなと思う。誰にでもいい顔したりおべっか言うとかじゃなくて、自分の中に確固たる価値観があって、ただそれに順じて生きてるっていう感じがするよね。だから誰にどう言われようが何を思われようが関係ない。わかってくれる人だけがわかってて、それを信じてくれてる。もちろん離れていった人もいるって言ってたの。でもそれに対して落ち込んだりもしない。私もそうやって強くなっていきたいなって思った。...