Interview: Kanako Murakami & Atsuko Murano Abalos

Interview: Kanako Murakami & Atsuko Murano Abalos

POSTの最初のスタッフである村上加奈子さんと、元スタッフであり、POSTで写真展を開催するなど、さまざまな形で関わってくださっている村野アバロス敦子さんにお話を伺いました。

 

角田:本日はよろしくお願いいたします。村上さんが働いていたころのエピソードや、敦子さんとPOSTの出会いのお話など伺えればと思っています。
村上さんが働き始めたのはPOSTの前身、リムアートの時ですか?

村上:そうです。中島さんの大学の卒業と同時に、当時の先輩と一緒に始めたのがきっかけで、オンラインストアから始めて、その後に早稲田のギャラリーでイベントとして開催したのが最初と聞いています。
そこから恵比寿に店舗を作ったときに、弟の中島孝介さんと田中貴志さんという自身で制作活動をされていた方がいて、その二人がジョインして四人で始めたのが恵比寿のリムアートです。
そこから田中さんが独立するとなった時に、外部から人を雇うことになり、私はその時に採用されました。実は別の方がすでにスタッフとして決まっていたのですが、予定外の追加枠という形で、面接を受けて採用してもらいました。

 

角田:その採用情報はどこで見つけたんですか?

村上:私は当時留学を終えて日本に帰ってきたタイミングで、新卒採用のルートから完全に外れてしまっていたのですが、知り合いの方が「恵比寿のリムアート、募集しているよ」と教えてくれたことがきっかけです。
行ったことのあるお店だし、いいなと思っていたので応募しました。

 

敦子:村上さんが働き始めた時から、現在の恵比寿の場所で、白いペンキ塗りの外観というのは変わりなかったんですか?

村上:はい、そうです。でも当時は家具、器、古本、ギャラリースペースのお店として運営していました。
*当時は現POSTの奥のギャラリースペースの他に、徒歩3分くらいの場所にアネックスという、ギャラリースペース兼撮影用レンタルスペースがありました。


敦子:じゃあ純粋に本屋になったのはいつなんでしょうか?

村上:それはPOSTを作ったタイミングですね。代々木ビレッジのお店を開けた時が、POSTと名乗った最初で、それが2011年とかかな?
なので私が働き始めたとき、まだお店の名前はリムアートで、本だけではなく、家具や器の接客もしていました。家具が売れたら梱包をして発送をするし、あとギャラリースペースのレンタルに関する問い合わせに対応したりしていました。

 

 

角田:村上さんが働かれていたのはいつからいつまでのことでしょうか?

村上:確かベルギーから帰国後の2010年から2013年の間ですね。

角田:退職のきっかけを伺ってもいいでしょうか?

村上: 私学生の時に賞をもらっていたんですね。その副賞がスウェーデンのアーティストインレジデンスで一ヶ月間滞在制作できる権利でした。それを実行できないまま日本に帰ってきてしまったので、スウェーデンに制作をしに行くというのを建前上の理由にしていました。
でも本当の理由は違ったんです。リムアートからPOSTになった時、実は会社にとって大きな転期で、事業の内容を本屋と家具屋で分けることになり、私が中島さんとPOSTを担当することになりました。
ワンダーウォールの片山さんからお声がけいただき、代々木ビレッジの中にPOSTを作って、リムアートでは扱っていなかった新刊を並べるようになりました。
その後、恵比寿に行くことはほとんどなく、代々木ビレッジの店舗に一人で立つことが多くなり、日々やることはあるものの時間に余裕があり、お客さんが来るのをじっと待っていたんです。お客さんが来ると接客をしていましたが、私が個人的にお店の人に話しかけられるのが苦手だったので、私に話しかけられて嫌だろうなという心配がありました。
扱っている書籍は基本英語だったり、たまにドイツ語の本もあって、何が書いているかわからないと思うので内容を説明するものの、アートブックってやっぱり難しい商材で本当に興味がある人にとってはすごく面白いけれど、そうじゃない人にとってはなんだこれっていう感じじゃないですか。それに、インターネットでも本が買える状況で重い本を店舗で買うときに、自分には何ができるんだろうと悩む状況が苦しくて、まあ私には多分向いてないのかなと思って辞めることに決めました。

働いている時に、未だに自分の人生の中でとても大事だなと思える出会いが何個かありました。その中の一人が、あるブックデザイナーの方です。
彼は奇襲家で、ものすごい量のアートブックを集めているのですが、ネットで検索してボタンを押せば購入できる本をわざわざ本屋に買いに行かれるんです。たくさん本を購入して、タクシーで帰ることもあると話されていました。「僕は本が好きだから、そういう本を実店舗で扱っているところを応援したい」とおっしゃっていたのが当時の私には衝撃的でした。
値段だけではなくて、その先まで考えた消費行動をする人がいるんだというのが大きな出会いだったのですが、それに見合ったサービスを私は提供できてない気がして、当時は心苦しさの方が勝ってしまいました。


角田:働いている時の印象的なエピソードはありますか?

村上:本屋として中島さんもやっぱりいろんなことを考えるじゃないですか、リムアートとして価値提供できるものはなんだろうって。
入社してまだ一年経ってないくらいの時に、中島さんに「Donald Judd / A good chair is a good chair」に掲載されているテキストを丸々一冊翻訳してほしいと頼まれ、ついでに版元のIkon Galleryへの許可取りも一緒にお願いされました。
それでとりあえず翻訳したものをIkon Galleryに送ったら、日本語がきちんと翻訳されているか確認する必要があるとのことで、彼らが懇意にしている日本人翻訳者の方からOKが出たら、その訳を使って良いと言われました。
それで彼女に確認したら、全然ダメですという回答で。今だったらAIとか使ってもっと簡単に翻訳できますが、翻訳のイロハを知らないただのアートの勉強をしていた学生だった私に、立派な翻訳ができるわけないですよね。
でもそのダメな理由が、ですます調がぐちゃぐちゃだということで、それを直し、校正を重ねた後に「これだったらいいと思います」と言っていただき、この本に日本語の冊子をつけることができました。
どこの本屋でもこの本は仕入れることができるので、中島さんはリムアートで買うことの付加価値をつけたかったんだと思います。

 

敦子:ちなみにそれで村上さんのお給料がアップになったとかはあるんですか?

村上:それはないです!
むしろ、当時は私にはなんの価値提供ができるんだろうってずっと思っていたので、リムアートで本を買ってもらえる理由を探しているというのが根本にあったから。中島さんのやりたいことみたいな、ビジョンみたいなものにも共感してたし、翻訳ができたのは良かったと思っています。


角田:中島さんと村上さんの関係性は何でも言い合えるような仲だったのでしょうか?
私は勤め始めの頃、中島さんと話すたびにとにかく緊張して、なるべく中島さんには話しかけないようにしてしまっていました。

村上:中島さんは、アートブックを扱う書店でアルバイトをした経験があるのみで、いわゆる就職を経験したことがないじゃないですか。大学卒業後に起業してここまで来ているので、模索しながらやってきたのだと思います。誰も教えてくれるわけでもなく、上司がいるわけでもないですし、こうやれ、ああやれと言われる環境でもないですよね。だからこそ、お客さんに導かれてここまで来たのだと思います。
私は中島さんと2歳しか違わないし、すごいプレッシャーだろうなと思ってたから。中島さんも答えを持っているわけじゃないんだろうなと思いながら働いていました。やりたいことやビジョンがあるけれど、それをどうやったらできるのか。中島さんも探り探りやっていたんだと思います。
「こういうことで悩んでるんだけど、村上さんはどう思う?」というようなことも言えない、気を張った状態だったんだと思います。

もう一つ印象的なエピソードがあって、中島さんが「オランダにまつわることを3つやりたい」と突然言ったんです。
それが、ウィム・クロウエル(Wim Crouwel)とバリー・コロンブル(Barry Kornbluh)、サンネ・サンネス(Sanne Sannes)にまつわることでした。
そこで私が提案したのがオランダ大使館に行くことだったんです。私は留学をしていた時に、大使館の役回りというのを身近で見てたので、オランダ大使館に行けば多分力になってくれるから、一緒に行きましょうと提案しました。でもいきなり行くわけにはいかないからとりあえず手紙を書こうかということになって、気持ちが伝わるようにオランダ語で手紙を書いたんです。
そうしたら大使館の方がお返事をくださって、担当のバスさんと会って話をすることができました。
そこで紹介してもらったオランダの財団に、リムアートがどんな活動をしているのか紹介するために、雑誌に掲載された記事などを全部スキャンしてプリントしたものをまとめて提出しました。結局その財団とは縁がなかったのですが、大使館がサポートをしてくれることになって、中島さんがやりたかった3つの企画が実現しました。
中島さんの事を尊敬していたし、思い描いている事を実現できるように、私ができることはやろうと思ってましたね。そういう時代だったんですかね。


角田:敦子さんとPOSTの出会いはいつ頃のことでしょうか?

敦子:私と中島さんの繋がりのきっかけをくれたのは田中義久さんなんです。
私が2013年までシンガポールに住んでいて、日本に戻ってきたあと自分の写真に悩んでいて。今後どうするんだろうって毎日模索していた時に、誰かに教えを乞いたいと思っていたタイミングで、六本木のIMA CONCEPT STOREで田中さんが「まだ見ぬ写真集のためのワークショップ」という写真集を作るワークショップを開催していました。私は田中さんのことをそれまで知らなかったのですが、すがる思いでそのワークショップに参加しました。
私は当時行き詰まっていたから、アメリカまで撮影に行って、真剣にワークショップに取り組んでいたんですね。それもあってか、最後の講評会で田中さんが出来をほめてくださって。中島さんはその講評会に田中さんに連れてこられていたんです。
今でも思い出すけれど、中島さんや田中さんみたいな本の人たちって、本を見るときに持ち上げて背を見たり独特な見方をするじゃないですか。中島さんも私の本をじっくり見てくださって、見た後に「応援したい」って言ってくれて、その場で私の本を買い取ってくれたんです。
委託じゃなくて買取で扱ってくれたことを田中さんにも「すごいことだよ」って教えてもらって、それから中島さんと田中さんにはずっと恩を感じています。

POST自体を手伝い始めたのは、TABFがまだ信濃町で開催されていた時、EINSTEIN STUDIOさんをお手伝いしていたんです。その時、目の前にPOSTブースがあって、私は中島さんのことを「私のことを応援してくれるって言ってくださった方だ」と思ってチラチラ見ていたんです。
最終日に私の方の撤収が早く終わったので、まだ片付け途中のPOSTブースに「手伝いましょうか?」とお声がけしたのがきっかけで、その後たまにアルバイトさせてもらうようになりました。
中島さんって私が会ってきた誰にも当てはまらないっていうか、不思議な人だと思います。村上さんは中島さんと同じマンションの住人でもあったんですよね。

村上:そう、私たちが先に住んでて、中島さんが引っ越してくる時に「郵便受けに村上さんの名前があるんですけど、住んでるマンションの名前ってなんですか?」って言われて。

敦子:運命づいた話だね。

 

村上:最後に伝えたいなと思ってたエピソードがもう一つあるので良いですか?
POSTを出版社ごとに本を入れ替える書店にしようって決めた後、一番最初の出版社をどこにするかって話していた時に、中島さんは絶対にウォルター・ケーニッヒ(Walther König)の特集をやりたいんだって言っていました。ウォルター・ケーニッヒの特集ができたら、他の出版社が続いてくれると思うので、絶対に彼らにOKをもらいたいので、「村上さん、ケーニッヒにメールしてください」とお願いされました。
でもメールしても返事なんて返ってこないんですよ。でも絶対ウォルター・ケーニッヒでやりたいって決めていて、待っていても返事はもらえないから、電話をかけてくださいって言われて。それで夜お店を閉めた後に中島さんと私で国際電話をかけました。そうしたら女性の方が出て、結構すんなりOKをくれました。しかもいい条件で扱かわせてもらえることになって、電話を切った後に中島さんが珍しくハイテンションになっていました。それがPOSTの誕生の瞬間です。

敦子:中島さんにはアートブックの天使がついてると思うんです。簡単に言えば持ってるってことだけど。やりたいと思ってできない人もたくさんいる中で、もちろん中島さんのご努力もあって、頑張っていらっしゃると思うけど、何か大きな力からの応援を受けてるよね。

村上:とはいえ、多分本人はものすごくプレッシャーだったと思う。銀行に融資してもらって、結構な賭けだったと思います。しかもアートブックですよ。

敦子:私はそこまでのプレッシャーはないけど、この年になると分かります。中島さんはもちろん自分でギリギリまで努力されているけど、でもやっぱりこうパッとドアが開いていくみたいなことってあると思うんです。
一つのことやろうと思って、一生懸命自分でやってみて、もうダメかな?と、半分諦めかけたらポッと道が開いていくというか。あ、こっちのやり方もあるかもみたいな。その時に誰かが登場したり、助っ人みたいな人が光と共に現れてくれるみたいな。そうすると、あ、お役目かな?やれってことかな?という風に思います。
やっぱり中島さんには、何か運のようなものというか、そういう巡り合わせがあるのだなと外から見ていて感じます。それによって世の中を良くしてくれているんですよね。POSTの今後を楽しみにしています。